仕事を部下に任せ、ほぼ定時にオフィスを出た私は、車のスターターボタンを押し運転席の窓を開けた。
地下駐車場には自分の車のアイドリング音と、天井に張り巡らされているダクトからの空調音だけが響いている。
彼との待ち合わせ時間まで、後、2時間半ほどある。途中の渋滞がなければ、約束の真鶴のホテルまで2時間掛からずに着くだろう。
彼は昨日から、出張で真鶴に宿泊している。
妻子のいる彼と関係をもって1年になる。
いわゆる中間管理職の私と、直属の上司である彼は、社内外問わず二人で打ち合わせをする機会が多く、それがいつしか男女の関係となっていった。
世間では人気アイドルの不倫が発覚して連日テレビを賑わせている。同僚や部下がその話題を面白おかしく話しているのを聞く度に、後ろめたさと情けなさが混ざったような気持ちになるのであった。
車のアイドリングも落ち着き、ルームミラーで自分の顔を見つめる。
仕事では部下に口うるさく指導しているが、プライベートでは理不尽な行動をしている自分に情けない気持ちのまま、私は地下駐車場を出た。
平日の夕方にも拘らず、都内の道は順調に流れている。連続したカーブの続く首都高速を抜け、一路真鶴に続くバイパスを走った。
彼との約束の20分前にホテルに着いた。
私はホテルの前に車を停め、少し歩いて周りの景色を見た。
ついさっき迄、都会のオフィスビル街にいたのが嘘のように、静かで素朴な街並みが目の前に広がる。
短い夏が終わり、秋の気配を感じさせる涼しい風が、上着を脱いだノースリーブの肩に冷たく、その風は何故か孤独感と心寂しい気持ちにさせる。
後ろを振り返り車を見るといつの間にか彼が車の横に佇み、こちらを見て微笑んでいる。
駅の近くの店で食事を済ませ、私達は彼の泊まるホテルへ向かった。
いつもと違う土地での密会とアルコールのせいか、彼は車の中から高まる欲情をあらわにし、信号で止まる度に助手席から手を伸ばし、私の腿をまさぐった。
彼が私との関係を続ける理由が身体だけが目的なのか、本心を確かめるすべもなく1年の月日が流れていた。
以前、私から1度だけ、「今日は食事が終ったら買い物に付き合ってほしい」と言った事があった。その日の彼は食事の間中不機嫌な顔をし、私の話も半分どうでもいいような態度だった事を思い出す。
しかし、身体だけが目的ではないと言われて、何がどうなるのか。妻と離婚させてまで、彼と生きていくような気持にはほど遠い自分がいる。
彼はいつもよりも長く私の身体を求め、私達はそのまま眠りについた。
冷えた身体に目を覚ますと、午前3時半を過ぎていた。私は身支度をして彼に声を掛け、そしてホテルを後にした。
誰一人歩いていない町に、たった1軒だけあるコンビニエンスストアの明るさが孤独感を少しだけ紛らわせてくれる。
海沿いの国道からバイパスに入り、目が覚めきれないけだるさで、ボーっとした頭のまま車を走らせた。
もう直ぐ夜が明けるバイパスに他の車の姿は見えず、私の車のロードノイズだけがシーンとした車内に響いている。
暫く走っているとサイドミラーに一点のライトが映りだした。
二輪車と思われるそのライトはけたたましい爆音と共にどんどん私の車に近づいてくる。
私は二輪車が真後ろに来る前に車線を左に変えた。
あっという間に後ろに来た二輪車は私の車の横に並び、抜かすことなく並行して走りだした。
私はスピードを落とし後ろに下がったが、二輪車はスピードを合せ横に並ぶ。
どうしてよいか判らず横を見ると、バイクには二人の少年が乗っていた。
見るからに「暴走族」と呼ばれる出で立ちの彼らはピタッと私の車の横についた。
運転席の少年は数秒間腰を上げ、立ったままの姿勢で右側の海岸線を眺めていたが、スッと座ると私の方に顔を向けた。
私と目が合うと何故かその少年はニコッと微笑んだ。
少し長めの茶髪をなびかせ、上下スウェット姿のその少年は、まるでアイドルでも通用するかのような顔立ちと無邪気な笑顔を見せ、その屈託のない瞳は、暴走族に対する世間のイメージである「反社会的」、「暴力」等とは無縁に感じてしまうほどであった。
敵意の無い少年の表情にホッとした私は二輪車の後部座席に目を移した。
後ろに座る少年は、運転席の少年と反し、黒髪の短髪に自分達のチーム名を刺繍したいわゆる「特攻服」姿の目つきの鋭い少年だった。
少年は左手に金属バットを握り、反抗的な鋭い目つきで私をじっと見ていた。
その少年と目が合った瞬間、世間のイメージ通りである彼らの危険な部分を感じ恐怖を覚えた。
私も周りの友人達と同じ位の歳で結婚していたら、彼らと同年代の子供がいたかもしれない。
私はどうする事も出来ず、速度を保ったまま走っていたその時、後方からサイレンの音が響き渡った。
警察車両のサイレンだった。
警察車両はサイレンと共に拡声器で少年達に停止するように促し始めた。
私は少し速度を落とし、少年達がどうするかを見ていた。
運転席の少年は目視とミラーで警察車両の位置を確認しながら、空ぶかしでアクセルを開き、マフラーから彼ら独特のリズムを発しながら走行し始めた。
自分達の呼びかけに従わないと判断した警察車両の拡声器から怒鳴り声が響き始める。
少年達は臆する事無く今にも停止してしまうかと思う程の低速で走り、バイクの前に出て停止させようとする警察車両の行く手を阻んだ。
私は1度車を停め、彼らとの距離を保ちながら走り続けた。
拡声器からは警察官の激しい怒鳴り声が響き続けている。
彼らは必死で追い抜こうとする警察車両の行く手を、空ぶかしを続けながら、巧みにひらりひらりと左右に移動して阻み続ける。
後部座席の少年は時折金属バットを警察車両のバンパーの前に出し、それ以上自分達に近づかいないように威嚇している。少年達のバイクと警察車両との距離は僅か数十センチに感じ、後ろから見ていると接触しているかのように見えるほどだった。
その警察車両と少年達の姿は、夫の裏切りを察し、真実を暴こうと怒り狂いながら叫び続ける妻の手から、ずる賢く逃げ回る自分の姿と重なった。
世間では「不良」、「柄が悪い」等、悪名高い彼らだが、確実に一人の人間を傷つけ続けているという点では、私の方が悪(あく)なのかもしれない。
その攻防は10分近く続いたが、あるインターチェンジが近づいた時、警察車両はサイレンと赤灯を止め、速度を落としバイパスを降りて行った。
何故追跡をやめたのかは不明だが、少年達は後ろを振り返り空ぶかしをやめて走り出した。
時折何か会話をしながら低速で走っていた彼らだったが、突然爆音と共に速度を上げた。
そのけたたましい爆音は先程までの緊張で目が覚めた私の鼓膜に突き刺る。
そして耳の奥に軽い痛みを感じた瞬間、心臓の鼓動が一度ドクンと大きく波打ち、私はとっさに両手でハンドルを握った。
ハンドルを握り直した時、左手につけていた彼から貰ったブレスレットが手首から肘の方へ動いた。
そのブレスレットの冷たい感触は、私の肌に這わす彼の唇を思い出させ、私は右手で留め具を外してそっとブレスレットを助手席に置いた。
つい数分前まで、ずる賢い私を彷彿させた少年達のバイクは、少しずつ私の車から遠ざかって行く。
私は何故か速度を上げ、彼らのスピードと同調して車を走らせたくなった。
真っ直ぐに続くバイパスには少年達のバイクと私の車しか居ない。
暫くの間、私は運転席の窓を開け、彼らと同じ風を感じた。
その間何を考えていたのか、それとも何も考えずに走っていたのかも判らない。只、1、2度、助手席に置いたブレスレットを見つめた気がする。
彼が眠るホテルから遠ざかるほどに、彼への気持ちが薄れていく気がした。
私は大きく息を吸って前方を走る少年達の後姿を見つめた。
少し冷たく、海の香りがする風に満たされた私の心は、爆音を奏で走り抜ける少年達と共に、夜が明けたばかりの薄紫の空に溶けていった。
end
by_Hearts
2016年10月21日金曜日
2016年8月19日金曜日
一日花
仕事の帰り道、駅の改札を出たところで電話が鳴った。
電話の相手は大学時代からの親友「リエ」からだった。
「まさみ?今度の土曜日花火見に行かない?彼氏来るから紹介するよ」
少し男勝りでせっかちなリエらしい急な誘いだった。
「うん、いいよ。行こう、行こう」
最近忙しい日が続き、息が詰まっていた私は一つ返事でOKした。
「洸太も一緒に4人で行こうよ」
「えっ?!洸太と?」
「うん。いい機会だからさ、もうまさみの気持ち伝えちゃえばいいじゃん」
私は一瞬返答に迷った。
大学時代からの友人「洸太」は、私が彼に想いを寄せている事に気付いていない。そして、洸太の心にいつも「リエ」がいる事をリエは知らなかった。
私と洸太は大学卒業後も、偶然近くに住んでいて、駅で2つ離れた距離だった。
私達は時々お互いの地元で待ち合わせをして食事をした。食事と言っても、カジュアルなレストランや、時には小奇麗な居酒屋で、同性の友達のような雰囲気で時間を過ごせる関係が続いていた。
私が洸太を好きになったのは、大学を卒業してからだった。素直で真面目で、少し鈍感なところもあるが、そんな洸太にいつしか惹かれていった。
でも、ある時、洸太から「俺、リエの事好きなんだ。。」と相談されて以来、私は自分の気持ちを伝える事ができなくなってしまった。そして洸太に口止めされ、その事をリエに話せずにいた。
「わかった。洸太に連絡してみるよ。」
私はリエとの電話を切り、複雑な気持ちのまま洸太に電話を掛けた。
「洸太?私。まだ仕事中だった?」
「まさみ?大丈夫だよ。どうした?」
「今、リエから電話があって、明後日、江の島の花火大会一緒に行かないかって言うんだけど。。」
洸太の気持ちを知っている私は、後ろめたさからか少し声が震えた。
「花火大会?あー、そうか、やってるよね。行けるよ、特別用事なかったし。リエと誰が来るの?」
洸太の問いに答えるしかなかった。
「うん、彼氏が来るみたい。何か私達に紹介したいんだって。。あと、私と洸太だけ。」
電波が途切れたかのように電話の向こうが静かになった。
思ったよりも長い沈黙に耐え切れず、私は洸太に謝った。
「ごめんね。どうしようかと思ったんだけど、リエがあまりにも乗り気だから断り辛くなっちゃって。。でも、嫌だよね、洸太用事があるって断っておくよ。」
「洸太行かないなら私も行かないし。。」
私は、リエと彼氏を見れば、洸太の想いが冷める事を心の何処かで期待しているようで、自分に嫌悪感を感じた。
「いや、行くよ。まさみは必ず来るでしょ?急にドタキャンするなよ。そしたら俺、最悪だからな(笑)」
洸太が笑いながら返答したので私はほっとした。
「よく考えたらあれか、、まさみが来れなくなったら俺も行かないよ。まさか3人って変な感じというかお邪魔過ぎるもんな(笑)」
「大丈夫だよ。私も行くから。車で行こうか?確か駐車場あるし。早目に着けば停めれるよ。久しぶりにドライブしようよ。」
「そうだな。そうしよう。帰り電車混んでたら暑いし」
洸太はリエの彼氏が来る事を忘れたかのように明るい声で言った。
「私の車だすよ。飲みたいでしょ?」
当日の待ち合わせ時間を決め、私達は電話を切った。
私は洸太と少しだけ遠出して二人で過ごす時間が出来た事が嬉しかった。只、当日はリエの彼氏と合わなければならない洸太の辛い現実を想像し、洸太の気持ちが少しでも落ち込まないように、どうやって接してあげればいいのか、その事が頭から離れず、あっという間に週末を迎えた。
当日はお互い遅れる事無く待ち合わせができた。途中リエから電話が入り、彼女達も車で来るとの事だった。
順調に流れている第三京浜を抜け、私達は湘南に向かった。
洸太は少し髪型を変え、服や靴も新調した出で立ちだった。それはリエの彼氏に対する、内に秘めたライバル心のようにも感じたが、アパレルを職とする、洸太らしい都会的でスタイリッシュな出で立ちだった。
「今日は一日、解散するまで私が洸太の彼女役ね。リエが彼氏連れてきて洸太可哀想だから(笑)」
助手席に向いて言う事が出来ず、所々空に低く広がる入道雲を見ながら私は言った。
「そうか(笑)、でも彼女にだったら花火見ながらキスしたりしてもいいんだよな(笑)」
純情な洸太らしい照れ隠しの返事だった。
「それは別(笑)」
私も笑いながら答えた。
途中の渋滞にあう事も無く、私達は予定通り、夕方のまだ明るい時間に江の島に着いた。
毎年恒例の大きな花火大会という事もあり、既に大勢の人で会場周りは賑わっていた。運よく駐車場もまだ空きが多く、この分ならリエ達もスムーズに停められそうだ。
リエ達との待ち合わせの時間まで1時間ほどある為、私と洸太はお土産屋さんを回り時間をつぶした。
「そろそろ待ち合わせの場所で待ってようか?」
私がそう言うと洸太は「うん」とだけ返答した。心なしか洸太の顔が緊張している。
私達が待ち合わせの場所に着いてから数分後にリエ達が来た。
リエは最初に私の事を彼氏に紹介した。
「大学からの親友、まさみ」
リエの彼氏は「初めまして」と、陽に焼けた顔と不自然とも見える真っ白い歯を見せて微笑んだ。
どちらかというと細身で背も高めの洸太とは見た目のタイプが違い、ラグビー選手のような、背は低めだが、筋肉質のガッチリした体型の彼氏だ。そしてその筋肉質な身体を誇張するかのように、袖の短いピタっとしたTシャツの出で立ちが印象的だった。
リエは洸太の事も「大学からの友達で洸太君」と紹介し、洸太とリエの彼氏は、少し緊張した笑顔で挨拶と握手を交わした。
洸太の白く細めの腕と、リエの彼氏の陽に焼けた太い腕のギャップが、LEDの電灯の下で目を引き、握手の手を差しのべたのは洸太からだったが、手を握った後は、洸太の腕が、2~3回軽く上下に振り回されているようにも見えた。
私達は人ごみの中、リエと洸太のビールを2本買い、リエが仕事の関係者から貰えた指定観覧席に座った。
予定時間から変更なく花火が打ち上げられ始め、一つの花火があがる度に、会場からは歓声があがる。
4席与えられた指定席には、私とリエの彼氏が両端に座り、中に洸太とリエが座った。
リエは時々洸太に話しかけ、洸太も微笑みながら話しをしている。それでも、リエが彼氏と体を寄せ合い、楽しそうに会話をする度に、洸太の横顔が寂しく陰るように見えた。
私はその度に洸太の気分が紛れるように、少しオーバーなほど明るく話しかけた。
観客の熱気と潮風が吹く中、1時間弱の花火大会はあっという間に終了に近づいてきた。
これからフィナーレの大型花火が連続で打ち上げられようとしている時、私は洸太に話しかけようと横を向いた。
月の光が洸太の潤んだ瞳を照らしている。
まさか泣きそうになると思っていなかった私は少し焦り、そのまま洸太の横顔を見つめた。
フィナーレを飾る大型花火の打ち上げが始まり、弾ける花火の爆発音は心臓まで響き渡る。
ドーン、ドーンと連続して心臓を震わす爆発音とリンクして、洸太の瞳は潤いを増していった。そして次の花火が打ち上げられる時には、目から涙がこぼれ落ちてしまいそうに見えた。
私はとっさに洸太の腕に手を回した。
洸太はびっくりして私の顔を見ようとしたが、涙目を見られたくなかったのか、少しだけ顔をこちらに向け、目を合せないまま夜空を見上げた。
私と洸太が腕を組んでいるのを見たリエは、嬉しそうに私の方を向き、洸太の背中越しからウィンクした。
とりを飾る花火が一際大きな音で弾けて花火大会が終了すると、洸太は大きく息を吐き、リエへの想いを断ち切るかのように背筋を伸ばして私に微笑んだ。
私は気の利いた言葉が見つからず、微笑み返す事しか出来なかった。
帰り道、私達は以前リエと行った事がある無国籍料理の店で食事をする事にした。
リエの彼氏は私の気持ちをリエから聞いていたのであろう、時々私と洸太を見ながら、何故か余裕のある笑みを浮かべていた。
私はその笑みを見る度に、涙をこらえていた洸太の悲しい横顔を思い出し、相反するリエの彼氏の表情が腹立たしく感じた。
1時間ほどで店を出て、私達はそれぞれの帰路についた。
海沿いの国道は少しだけ渋滞し、ラジオからは季節柄か、スローなハワイアンが流れ続けている。
行き道より口数が少ない洸太は、黙って通り沿いの店を見つめ、時々無理した笑顔で話しかけてきた。
「マンションまで送って行くから」
私がそう言うと洸太は静かに微笑み「ありがとう」と言った。
叶わぬ想いに落ち込んでいる洸太の傍に、少しでも長く居たい気分だった。
海沿いの渋滞を抜けた後はどの道も順調に流れ、気の利いた言葉を掛けられないまま洸太のマンションに着いた。
エントランスに続く白いスロープは緩やかにカーブし、両サイドには手入れの行き届いた木々の葉が風になびいている。
そしてエントランスの左側には白い大きな噴水がライトに照らされてた。
私はスロープの手前に車を停め、「元気出しなね。また近い内に飲もうね」と声を掛けた。
洸太は「大丈夫だよ。俺もまた連絡するよ」といい、軽く手を上げて助手席を降り、スロープを歩いて行った。
私は車から降りてドアを開けたまま洸太の後姿を見つめた。
切なさを押し殺し、毅然と歩く後ろ姿を見ていたら、私の心の中に何か言い表せられない感情が高まった。
「洸太!待って!」
私は車のドアを閉め、洸太のもとへ駆け寄った。そしてそのまま両腕を洸太の首に回し顔を埋めた。
「どうしたんだよ?」
驚いた洸太は両手をそっと私の肩に置き、私の顔を覗き込んだ。
私はそのまま洸太にキスをした。
噴水の水音の中、私達は少しの間唇を重ね、私は首に回した手をほどいた。
「見送るから行って。またね。」
洸太はまだ少し動揺した様子のまま、「うん、ありがとう。またな。」と言って微笑んだ。
洸太の後姿がエントランスの奥に消えた時、私の一日だけの彼女役が終わった。
私はたった今二人が佇んだスロープを見ながら車に乗り込んだ。
国道に出る手前の信号で止まった瞬間、何故か急に涙がこみ上げてきた。
そして花火大会で、こぼれそうな涙を必死にこらえていた洸太の横顔を思い出した。
想いの違う二つの涙を感じた時、こみ上げた涙はとめどなく溢れだし、暫くの間、人目も憚らず私は泣いた。拭っても拭っても涙が頬に伝った。
車のウィンドゥから見える景色は全て涙でにじみ、ぼやけて映る国道沿いのネオンと、限りなく点在する信号機のライトが打ち上げられた花火の様ににじんで広がり、それはいつまでも途切れる事無くバックミラーの奥に流れて行った。
end
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電話の相手は大学時代からの親友「リエ」からだった。
「まさみ?今度の土曜日花火見に行かない?彼氏来るから紹介するよ」
少し男勝りでせっかちなリエらしい急な誘いだった。
「うん、いいよ。行こう、行こう」
最近忙しい日が続き、息が詰まっていた私は一つ返事でOKした。
「洸太も一緒に4人で行こうよ」
「えっ?!洸太と?」
「うん。いい機会だからさ、もうまさみの気持ち伝えちゃえばいいじゃん」
私は一瞬返答に迷った。
大学時代からの友人「洸太」は、私が彼に想いを寄せている事に気付いていない。そして、洸太の心にいつも「リエ」がいる事をリエは知らなかった。
私と洸太は大学卒業後も、偶然近くに住んでいて、駅で2つ離れた距離だった。
私達は時々お互いの地元で待ち合わせをして食事をした。食事と言っても、カジュアルなレストランや、時には小奇麗な居酒屋で、同性の友達のような雰囲気で時間を過ごせる関係が続いていた。
私が洸太を好きになったのは、大学を卒業してからだった。素直で真面目で、少し鈍感なところもあるが、そんな洸太にいつしか惹かれていった。
でも、ある時、洸太から「俺、リエの事好きなんだ。。」と相談されて以来、私は自分の気持ちを伝える事ができなくなってしまった。そして洸太に口止めされ、その事をリエに話せずにいた。
「わかった。洸太に連絡してみるよ。」
私はリエとの電話を切り、複雑な気持ちのまま洸太に電話を掛けた。
「洸太?私。まだ仕事中だった?」
「まさみ?大丈夫だよ。どうした?」
「今、リエから電話があって、明後日、江の島の花火大会一緒に行かないかって言うんだけど。。」
洸太の気持ちを知っている私は、後ろめたさからか少し声が震えた。
「花火大会?あー、そうか、やってるよね。行けるよ、特別用事なかったし。リエと誰が来るの?」
洸太の問いに答えるしかなかった。
「うん、彼氏が来るみたい。何か私達に紹介したいんだって。。あと、私と洸太だけ。」
電波が途切れたかのように電話の向こうが静かになった。
思ったよりも長い沈黙に耐え切れず、私は洸太に謝った。
「ごめんね。どうしようかと思ったんだけど、リエがあまりにも乗り気だから断り辛くなっちゃって。。でも、嫌だよね、洸太用事があるって断っておくよ。」
「洸太行かないなら私も行かないし。。」
私は、リエと彼氏を見れば、洸太の想いが冷める事を心の何処かで期待しているようで、自分に嫌悪感を感じた。
「いや、行くよ。まさみは必ず来るでしょ?急にドタキャンするなよ。そしたら俺、最悪だからな(笑)」
洸太が笑いながら返答したので私はほっとした。
「よく考えたらあれか、、まさみが来れなくなったら俺も行かないよ。まさか3人って変な感じというかお邪魔過ぎるもんな(笑)」
「大丈夫だよ。私も行くから。車で行こうか?確か駐車場あるし。早目に着けば停めれるよ。久しぶりにドライブしようよ。」
「そうだな。そうしよう。帰り電車混んでたら暑いし」
洸太はリエの彼氏が来る事を忘れたかのように明るい声で言った。
「私の車だすよ。飲みたいでしょ?」
当日の待ち合わせ時間を決め、私達は電話を切った。
私は洸太と少しだけ遠出して二人で過ごす時間が出来た事が嬉しかった。只、当日はリエの彼氏と合わなければならない洸太の辛い現実を想像し、洸太の気持ちが少しでも落ち込まないように、どうやって接してあげればいいのか、その事が頭から離れず、あっという間に週末を迎えた。
当日はお互い遅れる事無く待ち合わせができた。途中リエから電話が入り、彼女達も車で来るとの事だった。
順調に流れている第三京浜を抜け、私達は湘南に向かった。
洸太は少し髪型を変え、服や靴も新調した出で立ちだった。それはリエの彼氏に対する、内に秘めたライバル心のようにも感じたが、アパレルを職とする、洸太らしい都会的でスタイリッシュな出で立ちだった。
「今日は一日、解散するまで私が洸太の彼女役ね。リエが彼氏連れてきて洸太可哀想だから(笑)」
助手席に向いて言う事が出来ず、所々空に低く広がる入道雲を見ながら私は言った。
「そうか(笑)、でも彼女にだったら花火見ながらキスしたりしてもいいんだよな(笑)」
純情な洸太らしい照れ隠しの返事だった。
「それは別(笑)」
私も笑いながら答えた。
途中の渋滞にあう事も無く、私達は予定通り、夕方のまだ明るい時間に江の島に着いた。
毎年恒例の大きな花火大会という事もあり、既に大勢の人で会場周りは賑わっていた。運よく駐車場もまだ空きが多く、この分ならリエ達もスムーズに停められそうだ。
リエ達との待ち合わせの時間まで1時間ほどある為、私と洸太はお土産屋さんを回り時間をつぶした。
「そろそろ待ち合わせの場所で待ってようか?」
私がそう言うと洸太は「うん」とだけ返答した。心なしか洸太の顔が緊張している。
私達が待ち合わせの場所に着いてから数分後にリエ達が来た。
リエは最初に私の事を彼氏に紹介した。
「大学からの親友、まさみ」
リエの彼氏は「初めまして」と、陽に焼けた顔と不自然とも見える真っ白い歯を見せて微笑んだ。
どちらかというと細身で背も高めの洸太とは見た目のタイプが違い、ラグビー選手のような、背は低めだが、筋肉質のガッチリした体型の彼氏だ。そしてその筋肉質な身体を誇張するかのように、袖の短いピタっとしたTシャツの出で立ちが印象的だった。
リエは洸太の事も「大学からの友達で洸太君」と紹介し、洸太とリエの彼氏は、少し緊張した笑顔で挨拶と握手を交わした。
洸太の白く細めの腕と、リエの彼氏の陽に焼けた太い腕のギャップが、LEDの電灯の下で目を引き、握手の手を差しのべたのは洸太からだったが、手を握った後は、洸太の腕が、2~3回軽く上下に振り回されているようにも見えた。
私達は人ごみの中、リエと洸太のビールを2本買い、リエが仕事の関係者から貰えた指定観覧席に座った。
予定時間から変更なく花火が打ち上げられ始め、一つの花火があがる度に、会場からは歓声があがる。
4席与えられた指定席には、私とリエの彼氏が両端に座り、中に洸太とリエが座った。
リエは時々洸太に話しかけ、洸太も微笑みながら話しをしている。それでも、リエが彼氏と体を寄せ合い、楽しそうに会話をする度に、洸太の横顔が寂しく陰るように見えた。
私はその度に洸太の気分が紛れるように、少しオーバーなほど明るく話しかけた。
観客の熱気と潮風が吹く中、1時間弱の花火大会はあっという間に終了に近づいてきた。
これからフィナーレの大型花火が連続で打ち上げられようとしている時、私は洸太に話しかけようと横を向いた。
月の光が洸太の潤んだ瞳を照らしている。
まさか泣きそうになると思っていなかった私は少し焦り、そのまま洸太の横顔を見つめた。
フィナーレを飾る大型花火の打ち上げが始まり、弾ける花火の爆発音は心臓まで響き渡る。
ドーン、ドーンと連続して心臓を震わす爆発音とリンクして、洸太の瞳は潤いを増していった。そして次の花火が打ち上げられる時には、目から涙がこぼれ落ちてしまいそうに見えた。
私はとっさに洸太の腕に手を回した。
洸太はびっくりして私の顔を見ようとしたが、涙目を見られたくなかったのか、少しだけ顔をこちらに向け、目を合せないまま夜空を見上げた。
私と洸太が腕を組んでいるのを見たリエは、嬉しそうに私の方を向き、洸太の背中越しからウィンクした。
とりを飾る花火が一際大きな音で弾けて花火大会が終了すると、洸太は大きく息を吐き、リエへの想いを断ち切るかのように背筋を伸ばして私に微笑んだ。
私は気の利いた言葉が見つからず、微笑み返す事しか出来なかった。
帰り道、私達は以前リエと行った事がある無国籍料理の店で食事をする事にした。
リエの彼氏は私の気持ちをリエから聞いていたのであろう、時々私と洸太を見ながら、何故か余裕のある笑みを浮かべていた。
私はその笑みを見る度に、涙をこらえていた洸太の悲しい横顔を思い出し、相反するリエの彼氏の表情が腹立たしく感じた。
1時間ほどで店を出て、私達はそれぞれの帰路についた。
海沿いの国道は少しだけ渋滞し、ラジオからは季節柄か、スローなハワイアンが流れ続けている。
行き道より口数が少ない洸太は、黙って通り沿いの店を見つめ、時々無理した笑顔で話しかけてきた。
「マンションまで送って行くから」
私がそう言うと洸太は静かに微笑み「ありがとう」と言った。
叶わぬ想いに落ち込んでいる洸太の傍に、少しでも長く居たい気分だった。
海沿いの渋滞を抜けた後はどの道も順調に流れ、気の利いた言葉を掛けられないまま洸太のマンションに着いた。
エントランスに続く白いスロープは緩やかにカーブし、両サイドには手入れの行き届いた木々の葉が風になびいている。
そしてエントランスの左側には白い大きな噴水がライトに照らされてた。
私はスロープの手前に車を停め、「元気出しなね。また近い内に飲もうね」と声を掛けた。
洸太は「大丈夫だよ。俺もまた連絡するよ」といい、軽く手を上げて助手席を降り、スロープを歩いて行った。
私は車から降りてドアを開けたまま洸太の後姿を見つめた。
切なさを押し殺し、毅然と歩く後ろ姿を見ていたら、私の心の中に何か言い表せられない感情が高まった。
「洸太!待って!」
私は車のドアを閉め、洸太のもとへ駆け寄った。そしてそのまま両腕を洸太の首に回し顔を埋めた。
「どうしたんだよ?」
驚いた洸太は両手をそっと私の肩に置き、私の顔を覗き込んだ。
私はそのまま洸太にキスをした。
噴水の水音の中、私達は少しの間唇を重ね、私は首に回した手をほどいた。
「見送るから行って。またね。」
洸太はまだ少し動揺した様子のまま、「うん、ありがとう。またな。」と言って微笑んだ。
洸太の後姿がエントランスの奥に消えた時、私の一日だけの彼女役が終わった。
私はたった今二人が佇んだスロープを見ながら車に乗り込んだ。
国道に出る手前の信号で止まった瞬間、何故か急に涙がこみ上げてきた。
そして花火大会で、こぼれそうな涙を必死にこらえていた洸太の横顔を思い出した。
想いの違う二つの涙を感じた時、こみ上げた涙はとめどなく溢れだし、暫くの間、人目も憚らず私は泣いた。拭っても拭っても涙が頬に伝った。
車のウィンドゥから見える景色は全て涙でにじみ、ぼやけて映る国道沿いのネオンと、限りなく点在する信号機のライトが打ち上げられた花火の様ににじんで広がり、それはいつまでも途切れる事無くバックミラーの奥に流れて行った。
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2016年7月18日月曜日
サイレント
真夏日が続いている平日、仕事を終えた僕は、海辺のレストランに彼女を誘い、待ち合わせをした。
一足先に着いた僕は、心地よくボサノバが流れる店内を抜け、外のテラスに座った。
昼間の暑さと変わり、砂浜の上にあるテラス席は、海からの風が程よく流れ、少し汗ばんだ体を冷ましてくれる。
8月に入り、夏休みだからだろうか、砂浜には10代と思われる何人かの男女が、花火を手にしながら楽しそうに戯れていた。
平日の今日、僕が急に彼女を誘ったのには理由があった。
付き合い始めて1年半が経つ彼女は、法律事務所に勤めながら弁護士を目指していた。
勤勉で実直な彼女は、日々の勉強と情報収集を怠らず、忙しい日々を送っている。
数名のスタッフを雇い、小さいながらも会社を経営している僕は、そんな彼女の目標を邪魔しないよう、そして何か力になれる事があれば協力してあげたい気持ちで、彼女と付き合ってきた。
そしてそれとは別にもう一つの思い、、それは一生のパートナーとして、彼女と家庭を築きたい思いだった。
でも、彼女の夢と目標を判っている僕は、そんな自分の気持ちを少しでも感じられてしまう事に臆病になっていた。「彼女の一番の望みは、僕と結婚する事では無く、弁護士になる事なんだ。。」僕はずっと自分にそう言い聞かせてきた。
結婚しても彼女には今まで通り、夢を叶える為の生活を続けて欲しい。「そんな簡単に上手くいくはずがない」と言われるかもしれないし、僕の素直な気持ちを知ったら、彼女は僕から離れて行くかも知れない。でも自分の素直な気持ちを告げたくて、僕は今日彼女を誘った。
僕は彼女が着く前に、覚悟が揺らがないように、ポケットからリングケースを出して蓋を開けた。テラスの端にある薄いオレンジ色の電球と月の光がダイヤを照らしている。
僕がリングケースをポケットに戻してから数分後に彼女が着いた。
ベージュのパンツスーツに身を包んだ彼女は、テラス席の僕を見つけると、急いで席に着き「ごめんね、待たせちゃって」と言った。
綺麗な黒髪をかきあげながら優しく微笑む彼女のバッグは、チャックが最後まで閉まらないほど色々な資料や書籍が入っていて、それは僕の急な誘いに、急いで仕事を終わらせて駆けつけてくれた事を物語っていた。
僕は彼女と結婚したいと思い始めてから、仕事帰りのデートの時、いつもバッグに入っているたくさんの本や資料を見る度に、自分の気持ちを胸の奥にしまっていた。彼女は服や持ち物のセンスがよく、仕事用のバッグもいくつか持っていたが、どのバッグも形が崩れる程、いつもたくさんの資料が入っていた。
ウェイターに注文を終え、僕たちはお互いの今日一日の事を話した。
彼女は砂浜ではしゃぐ若者達を見ながら、「あの子達楽しそうだね」と優しい眼差しで言った。
僕達が食事をしている間、穏やかに打ち寄せる波の音と、店内から聞こえてくるボサノバが、二人の時間を優しく包み、そして時々聞こえてくる若者達の笑い声が、何故か今日は心地よかった。
食事を終え、二人でレモンティーを飲んでいると、風のざわつきと共に、どこからかプルメリアの花びらが僕達のテーブルに舞い落ちてきた。
「わぁー、可愛い。綺麗な花。。」
彼女はそう言うと、その花びらを僕と彼女の間に置き、人差し指で優しく触れて微笑んでいる。
そんな彼女を見ながら、僕は一つ大きく息を吸い、ポケットの中のリングケースをつかみ、その手をテーブルの下の足の上に置いた。
僕は意を決して言った。
「あのさ、聞いて貰い、、」
僕がそう言いかけた時、ザパーンと今迄より大きな波の音と、若者達が打ち上げた打ち上げ花火のヒューと言う音が僕の言葉をかき消した。
彼女は夜空を見上げ、パーンと弾けた花火を見つめた。
花火から視線を戻した彼女は、僕が何か言いかけたのかと思い、微笑みながら僕の顔を見つめた。
僕はもう一度仕切り直すか迷い、彼女が風で動いたプルメリアの花びらをそっとつかみ、テーブルの真ん中にもどしているのを見つめたまま、少しの間黙ってしまった。
その時ウォーターグラスの氷がカチャっと音をたて少し沈んだ。
「いいさ、また次の機会にしよう。。」
僕は胸の中でつぶやき、手にしたリングケースを静かにポケットの奥にしまった。
二人で砂浜に目を移すと、波は静けさを取り戻し、波打ち際で砕けた白い泡が、月の光に優しく照らされていた。
end
by_hearts
一足先に着いた僕は、心地よくボサノバが流れる店内を抜け、外のテラスに座った。
昼間の暑さと変わり、砂浜の上にあるテラス席は、海からの風が程よく流れ、少し汗ばんだ体を冷ましてくれる。
8月に入り、夏休みだからだろうか、砂浜には10代と思われる何人かの男女が、花火を手にしながら楽しそうに戯れていた。
平日の今日、僕が急に彼女を誘ったのには理由があった。
付き合い始めて1年半が経つ彼女は、法律事務所に勤めながら弁護士を目指していた。
勤勉で実直な彼女は、日々の勉強と情報収集を怠らず、忙しい日々を送っている。
数名のスタッフを雇い、小さいながらも会社を経営している僕は、そんな彼女の目標を邪魔しないよう、そして何か力になれる事があれば協力してあげたい気持ちで、彼女と付き合ってきた。
そしてそれとは別にもう一つの思い、、それは一生のパートナーとして、彼女と家庭を築きたい思いだった。
でも、彼女の夢と目標を判っている僕は、そんな自分の気持ちを少しでも感じられてしまう事に臆病になっていた。「彼女の一番の望みは、僕と結婚する事では無く、弁護士になる事なんだ。。」僕はずっと自分にそう言い聞かせてきた。
結婚しても彼女には今まで通り、夢を叶える為の生活を続けて欲しい。「そんな簡単に上手くいくはずがない」と言われるかもしれないし、僕の素直な気持ちを知ったら、彼女は僕から離れて行くかも知れない。でも自分の素直な気持ちを告げたくて、僕は今日彼女を誘った。
僕は彼女が着く前に、覚悟が揺らがないように、ポケットからリングケースを出して蓋を開けた。テラスの端にある薄いオレンジ色の電球と月の光がダイヤを照らしている。
僕がリングケースをポケットに戻してから数分後に彼女が着いた。
ベージュのパンツスーツに身を包んだ彼女は、テラス席の僕を見つけると、急いで席に着き「ごめんね、待たせちゃって」と言った。
綺麗な黒髪をかきあげながら優しく微笑む彼女のバッグは、チャックが最後まで閉まらないほど色々な資料や書籍が入っていて、それは僕の急な誘いに、急いで仕事を終わらせて駆けつけてくれた事を物語っていた。
僕は彼女と結婚したいと思い始めてから、仕事帰りのデートの時、いつもバッグに入っているたくさんの本や資料を見る度に、自分の気持ちを胸の奥にしまっていた。彼女は服や持ち物のセンスがよく、仕事用のバッグもいくつか持っていたが、どのバッグも形が崩れる程、いつもたくさんの資料が入っていた。
ウェイターに注文を終え、僕たちはお互いの今日一日の事を話した。
彼女は砂浜ではしゃぐ若者達を見ながら、「あの子達楽しそうだね」と優しい眼差しで言った。
僕達が食事をしている間、穏やかに打ち寄せる波の音と、店内から聞こえてくるボサノバが、二人の時間を優しく包み、そして時々聞こえてくる若者達の笑い声が、何故か今日は心地よかった。
食事を終え、二人でレモンティーを飲んでいると、風のざわつきと共に、どこからかプルメリアの花びらが僕達のテーブルに舞い落ちてきた。
「わぁー、可愛い。綺麗な花。。」
彼女はそう言うと、その花びらを僕と彼女の間に置き、人差し指で優しく触れて微笑んでいる。
そんな彼女を見ながら、僕は一つ大きく息を吸い、ポケットの中のリングケースをつかみ、その手をテーブルの下の足の上に置いた。
僕は意を決して言った。
「あのさ、聞いて貰い、、」
僕がそう言いかけた時、ザパーンと今迄より大きな波の音と、若者達が打ち上げた打ち上げ花火のヒューと言う音が僕の言葉をかき消した。
彼女は夜空を見上げ、パーンと弾けた花火を見つめた。
花火から視線を戻した彼女は、僕が何か言いかけたのかと思い、微笑みながら僕の顔を見つめた。
僕はもう一度仕切り直すか迷い、彼女が風で動いたプルメリアの花びらをそっとつかみ、テーブルの真ん中にもどしているのを見つめたまま、少しの間黙ってしまった。
その時ウォーターグラスの氷がカチャっと音をたて少し沈んだ。
「いいさ、また次の機会にしよう。。」
僕は胸の中でつぶやき、手にしたリングケースを静かにポケットの奥にしまった。
二人で砂浜に目を移すと、波は静けさを取り戻し、波打ち際で砕けた白い泡が、月の光に優しく照らされていた。
end
by_hearts
2016年6月7日火曜日
シグナル
夏の終わりの夕暮れ、私は取引先との商談を終え、人通りも少ないお台場のビル街にいた。
海からの風が強い大通りで信号待ちをしていると、通りの向こうに見覚えのある横顔が目に映った。
それは大学時代に付き合っていた彼だった。
彼とは大学に入学してすぐに親しくなり、卒業してからも半年ほど付き合っていた。
卒業後にお互い就職し、平日が休みだった彼と、土、日が休みの私はだんだんと時間がすれ違うようになってしまった。
穏やかで優しい彼は、それでも一生懸命二人の仲が続くように努力をし、いつも優しい態度で私に接してくれた。
その頃、出世競争が激しい慣れない仕事と職場の人間関係に悩み、穏やかな気持ちで過ごせない日々が続いていた私は、そんな彼の態度にさえ苛立ちを感じ、感情的な言葉で彼に接した。
彼から別れを告げられた夜、彼は悲しい瞳で私に言った。「ずっと一緒に居たかった」と。
あれから約六年の月日が経った今でも、彼のその言葉を時々思い出す。
そして卒業前、まだ仲が良かった時に、よくこのお台場でも買い物デートをした。
まだ社会の厳しさも意識せず、買い物の帰り道に、子供は何人が理想か、、等の会話を何の屈託もなくしていた。あの頃の私はこのまま彼と一緒に居るのが当たり前だと、自然に思えていたのかもしれない。
彼は紺色のベビーカーを押し、隣には妻が寄り添っていた。
この横断歩道の前で立ち停まるのか、それともそのまま交差点の向こうに行ってしまうのか、私は少し鼓動が早くなるのを感じた。
彼は横断歩道の前で停まり、ベビーカーの向きをこちら側に向けた。
何を話せばよいのか考える時間も無く信号が青に変わった。
一歩一歩彼が近づいてくる。
あと数歩で横断歩道の真ん中にさしかかる時、突然強い風が吹き、ベビーカーに挟んでいた小さいタオルが風に舞い、私の足元で落ちた。
私はタオルを拾い、妻に渡した。
彼の妻が笑顔で「有難うございます」と言うのと同時に彼が私に気が付いた。
「あれ!?久しぶり!」
私の名前は呼ばずに彼が言った。
「うわぁー、びっくりした。久しぶりだね」
今彼に気が付いたという演技で精いっぱいだった。
「何年振りだろう。何か出世した?貫禄でてるよ」
彼は緊張した笑顔で私に言った。
「出世なんかしてないよ。」
彼の緊張した笑顔につられ、自分の顔もこわばるのを感じた。
付き合っていた頃、いつも一緒に居て、長い時間を過ごし、自然な笑顔で心から笑い合っていたのに、時が経った今、お互いこわばった笑顔で瞳を合せるのが悲しかった。
「大学時代の知り合いなんだ」
彼は私の名前をさん付けにして妻に紹介した。
彼の妻は「初めまして」と会釈をし、自分の名前を告げた。
彼の妻の名前を聞いた時、何故か心がグサッとした。ただ名前を知っただけなのに。
「可愛いですね」
私は彼と目を合わせる事ができず、産まれたばかりの子供をあやす事しか出来なかった。
「あっ!信号変わっちゃう」
彼の妻の言葉で顔を上げると青のシグナルが点滅に変わっていた。
「じゃあまたね。仕事頑張ってね!」
この先偶然会える可能性など無いのに彼は言った。彼の瞳が何かを伝えたそうに一瞬私を見つめた。
「うん、ありがとう」
妻に会釈をし、私達は小走りで逆の方向に渡っていった。
本当は彼に心から謝りたかった。あの日の口論や別の日の私の態度も。。でも、妻の前でそんな会話が出来るはずがない。
点滅が終わり歩道が赤に変わる瞬間に私は渡り切った。
後ろを振り返ると、彼らは私より一歩遅れて渡り切ったのが見えた。妻が笑顔で彼に話しかけている。
私は軽く息をはずませながら彼を見ていた。
振り返って欲しい。後ろ姿を見ながら祈るように思った。
信号を渡り切った彼は、ベビーカーを妻に手渡して振り返った。
二秒位だろうか、私と目が合った後、彼は爪先立ちになりながら両腕を目いっぱい上に伸ばし、両手を大きく振りながら満面の笑みで私に手を振った。
その笑顔としぐさは、初めてのデートの日、待ち合わせの駅の改札の前で、少し遅れてきた私を大通りの反対側で見つけた時と同じだった。
彼の笑顔を見た瞬間、私はさっきまでのとまどいが全てなくなり、彼と同じしぐさと笑顔で手を振り返していた。
謝りたいのに謝れなかった分、私は彼よりたくさん手を振った。
彼は私の気持ちを察してくれたかのように、何度も何度も手を振り返してくれた。
二人が挟む交通量が少ない大通りに海岸からの海風が吹いた。
その風は買い物の帰り道、いつも腕を組みながら歩いていた、あの頃と同じ潮の香りがした。
end
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海からの風が強い大通りで信号待ちをしていると、通りの向こうに見覚えのある横顔が目に映った。
それは大学時代に付き合っていた彼だった。
彼とは大学に入学してすぐに親しくなり、卒業してからも半年ほど付き合っていた。
卒業後にお互い就職し、平日が休みだった彼と、土、日が休みの私はだんだんと時間がすれ違うようになってしまった。
穏やかで優しい彼は、それでも一生懸命二人の仲が続くように努力をし、いつも優しい態度で私に接してくれた。
その頃、出世競争が激しい慣れない仕事と職場の人間関係に悩み、穏やかな気持ちで過ごせない日々が続いていた私は、そんな彼の態度にさえ苛立ちを感じ、感情的な言葉で彼に接した。
彼から別れを告げられた夜、彼は悲しい瞳で私に言った。「ずっと一緒に居たかった」と。
あれから約六年の月日が経った今でも、彼のその言葉を時々思い出す。
そして卒業前、まだ仲が良かった時に、よくこのお台場でも買い物デートをした。
まだ社会の厳しさも意識せず、買い物の帰り道に、子供は何人が理想か、、等の会話を何の屈託もなくしていた。あの頃の私はこのまま彼と一緒に居るのが当たり前だと、自然に思えていたのかもしれない。
彼は紺色のベビーカーを押し、隣には妻が寄り添っていた。
この横断歩道の前で立ち停まるのか、それともそのまま交差点の向こうに行ってしまうのか、私は少し鼓動が早くなるのを感じた。
彼は横断歩道の前で停まり、ベビーカーの向きをこちら側に向けた。
何を話せばよいのか考える時間も無く信号が青に変わった。
一歩一歩彼が近づいてくる。
あと数歩で横断歩道の真ん中にさしかかる時、突然強い風が吹き、ベビーカーに挟んでいた小さいタオルが風に舞い、私の足元で落ちた。
私はタオルを拾い、妻に渡した。
彼の妻が笑顔で「有難うございます」と言うのと同時に彼が私に気が付いた。
「あれ!?久しぶり!」
私の名前は呼ばずに彼が言った。
「うわぁー、びっくりした。久しぶりだね」
今彼に気が付いたという演技で精いっぱいだった。
「何年振りだろう。何か出世した?貫禄でてるよ」
彼は緊張した笑顔で私に言った。
「出世なんかしてないよ。」
彼の緊張した笑顔につられ、自分の顔もこわばるのを感じた。
付き合っていた頃、いつも一緒に居て、長い時間を過ごし、自然な笑顔で心から笑い合っていたのに、時が経った今、お互いこわばった笑顔で瞳を合せるのが悲しかった。
「大学時代の知り合いなんだ」
彼は私の名前をさん付けにして妻に紹介した。
彼の妻は「初めまして」と会釈をし、自分の名前を告げた。
彼の妻の名前を聞いた時、何故か心がグサッとした。ただ名前を知っただけなのに。
「可愛いですね」
私は彼と目を合わせる事ができず、産まれたばかりの子供をあやす事しか出来なかった。
「あっ!信号変わっちゃう」
彼の妻の言葉で顔を上げると青のシグナルが点滅に変わっていた。
「じゃあまたね。仕事頑張ってね!」
この先偶然会える可能性など無いのに彼は言った。彼の瞳が何かを伝えたそうに一瞬私を見つめた。
「うん、ありがとう」
妻に会釈をし、私達は小走りで逆の方向に渡っていった。
本当は彼に心から謝りたかった。あの日の口論や別の日の私の態度も。。でも、妻の前でそんな会話が出来るはずがない。
点滅が終わり歩道が赤に変わる瞬間に私は渡り切った。
後ろを振り返ると、彼らは私より一歩遅れて渡り切ったのが見えた。妻が笑顔で彼に話しかけている。
私は軽く息をはずませながら彼を見ていた。
振り返って欲しい。後ろ姿を見ながら祈るように思った。
信号を渡り切った彼は、ベビーカーを妻に手渡して振り返った。
二秒位だろうか、私と目が合った後、彼は爪先立ちになりながら両腕を目いっぱい上に伸ばし、両手を大きく振りながら満面の笑みで私に手を振った。
その笑顔としぐさは、初めてのデートの日、待ち合わせの駅の改札の前で、少し遅れてきた私を大通りの反対側で見つけた時と同じだった。
彼の笑顔を見た瞬間、私はさっきまでのとまどいが全てなくなり、彼と同じしぐさと笑顔で手を振り返していた。
謝りたいのに謝れなかった分、私は彼よりたくさん手を振った。
彼は私の気持ちを察してくれたかのように、何度も何度も手を振り返してくれた。
二人が挟む交通量が少ない大通りに海岸からの海風が吹いた。
その風は買い物の帰り道、いつも腕を組みながら歩いていた、あの頃と同じ潮の香りがした。
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