2016年6月7日火曜日

シグナル

夏の終わりの夕暮れ、私は取引先との商談を終え、人通りも少ないお台場のビル街にいた。

海からの風が強い大通りで信号待ちをしていると、通りの向こうに見覚えのある横顔が目に映った。

それは大学時代に付き合っていた彼だった。

彼とは大学に入学してすぐに親しくなり、卒業してからも半年ほど付き合っていた。

卒業後にお互い就職し、平日が休みだった彼と、土、日が休みの私はだんだんと時間がすれ違うようになってしまった。

穏やかで優しい彼は、それでも一生懸命二人の仲が続くように努力をし、いつも優しい態度で私に接してくれた。

その頃、出世競争が激しい慣れない仕事と職場の人間関係に悩み、穏やかな気持ちで過ごせない日々が続いていた私は、そんな彼の態度にさえ苛立ちを感じ、感情的な言葉で彼に接した。

彼から別れを告げられた夜、彼は悲しい瞳で私に言った。「ずっと一緒に居たかった」と。

あれから約六年の月日が経った今でも、彼のその言葉を時々思い出す。

そして卒業前、まだ仲が良かった時に、よくこのお台場でも買い物デートをした。

まだ社会の厳しさも意識せず、買い物の帰り道に、子供は何人が理想か、、等の会話を何の屈託もなくしていた。あの頃の私はこのまま彼と一緒に居るのが当たり前だと、自然に思えていたのかもしれない。

彼は紺色のベビーカーを押し、隣には妻が寄り添っていた。

この横断歩道の前で立ち停まるのか、それともそのまま交差点の向こうに行ってしまうのか、私は少し鼓動が早くなるのを感じた。

彼は横断歩道の前で停まり、ベビーカーの向きをこちら側に向けた。

何を話せばよいのか考える時間も無く信号が青に変わった。

一歩一歩彼が近づいてくる。

あと数歩で横断歩道の真ん中にさしかかる時、突然強い風が吹き、ベビーカーに挟んでいた小さいタオルが風に舞い、私の足元で落ちた。

私はタオルを拾い、妻に渡した。

彼の妻が笑顔で「有難うございます」と言うのと同時に彼が私に気が付いた。

「あれ!?久しぶり!」

私の名前は呼ばずに彼が言った。

「うわぁー、びっくりした。久しぶりだね」

今彼に気が付いたという演技で精いっぱいだった。

「何年振りだろう。何か出世した?貫禄でてるよ」

彼は緊張した笑顔で私に言った。

「出世なんかしてないよ。」

彼の緊張した笑顔につられ、自分の顔もこわばるのを感じた。

付き合っていた頃、いつも一緒に居て、長い時間を過ごし、自然な笑顔で心から笑い合っていたのに、時が経った今、お互いこわばった笑顔で瞳を合せるのが悲しかった。

「大学時代の知り合いなんだ」

彼は私の名前をさん付けにして妻に紹介した。

彼の妻は「初めまして」と会釈をし、自分の名前を告げた。

彼の妻の名前を聞いた時、何故か心がグサッとした。ただ名前を知っただけなのに。

「可愛いですね」

私は彼と目を合わせる事ができず、産まれたばかりの子供をあやす事しか出来なかった。

「あっ!信号変わっちゃう」

彼の妻の言葉で顔を上げると青のシグナルが点滅に変わっていた。

「じゃあまたね。仕事頑張ってね!」

この先偶然会える可能性など無いのに彼は言った。彼の瞳が何かを伝えたそうに一瞬私を見つめた。

「うん、ありがとう」

妻に会釈をし、私達は小走りで逆の方向に渡っていった。

本当は彼に心から謝りたかった。あの日の口論や別の日の私の態度も。。でも、妻の前でそんな会話が出来るはずがない。

点滅が終わり歩道が赤に変わる瞬間に私は渡り切った。

後ろを振り返ると、彼らは私より一歩遅れて渡り切ったのが見えた。妻が笑顔で彼に話しかけている。

私は軽く息をはずませながら彼を見ていた。

振り返って欲しい。後ろ姿を見ながら祈るように思った。

信号を渡り切った彼は、ベビーカーを妻に手渡して振り返った。

二秒位だろうか、私と目が合った後、彼は爪先立ちになりながら両腕を目いっぱい上に伸ばし、両手を大きく振りながら満面の笑みで私に手を振った。

その笑顔としぐさは、初めてのデートの日、待ち合わせの駅の改札の前で、少し遅れてきた私を大通りの反対側で見つけた時と同じだった。

彼の笑顔を見た瞬間、私はさっきまでのとまどいが全てなくなり、彼と同じしぐさと笑顔で手を振り返していた。

謝りたいのに謝れなかった分、私は彼よりたくさん手を振った。

彼は私の気持ちを察してくれたかのように、何度も何度も手を振り返してくれた。

二人が挟む交通量が少ない大通りに海岸からの海風が吹いた。

その風は買い物の帰り道、いつも腕を組みながら歩いていた、あの頃と同じ潮の香りがした。

end

by_hearts