2017年10月10日火曜日

Side Road

平日休みの今日、所用を済ませる為に、僕は午前中から車を走らせていた。

用事のある目的地迄は自宅から1時間程の所にある。

車の窓を開け空を見ると、少し高くなった雲と、湿度の低くなった空気が夏の終わりを感じさせる。

思いのほか交通量の少ない国道を抜け、僕は予想していた時間より早く目的地に着く事ができた。

問題無く用事も済み、パーキングに戻る途中で目に留まった、昭和の懐かしさを感じる中華屋で少し早目の昼食を済ませ帰路につく事にした。

走り始めて少しすると、ナビが渋滞回避のルート変更をアナウンスした。

僕は所々微かに記憶にある裏道を辿るか、ナビの誘導に従うか迷ったが、空腹が満たされた後の少しの眠気のせいもあり、ナビの選択したルートに従う事にした。

ナビはアナウンスの後、国道から裏道に入るルートを選択し、暫くの間、車は住宅街と幾つものスクールゾーンを抜けながら走った。

裏道を走り続けていると、見覚えのある十字路にたどり着いた。

それは、20年程前、3年間付きあっていた彼女の家の近くの十字路だった。

高校卒業後直ぐに働いていた僕は、周りの友人より何年も遅れて免許を取った。そして安い小型の中古車を買い、時間が合う度に彼女と車で出掛けて、帰りはいつも家まで送っていた。

週に何度も彼女を送り届ける僕を見て、彼女の母親は「コーヒーでも飲んで行きなさい」と、時々僕を家に招いてくれた。

夫を事故で亡くしていたが、それを感じさせない、明るく社交的で綺麗な母親だった。

彼女との交際を認めてもらう為の、きちんとした挨拶をした事がないままにも拘らず、彼女の母親の優しい態度が凄く嬉しかったのを今でも覚えている。

偶然たどり着いた風景に、懐かしさが胸いっぱいに広がった。

僕はナビのアナウンスをOFFにして、後ろから車が来ない事を確かめながら、ゆっくりと周りの風景を見つめた。

彼女を送り届けた帰り道、毎回のように煙草とビールを買いに寄っていた酒屋は、壁のペンキを塗り替え、入り口の屋根も新しくし、店の中も現代風にリニューアルされていた。

少し停まり店内を見ると、店主が笑顔で客と会話をしながらレジを打っていた。

あの頃、頻繁に買いに来る僕に、店主は「毎度有難うございます。」と親しみのある笑顔を見せてくれていた。何度か顔を合わせるうちに、少しだけ世間話をする事もあったが、今でも僕の事を覚えてくれているだろうか。。

一瞬店に入りたい気持ちになったが、今では煙草もやめ、家では酒も殆ど飲まなくなったので、何を買うか思いつかずにそのまま通り過ぎてしまった。

酒屋の前からは数分で大通りに出れる筈だが、僕はもう少しこの辺りの風景を見たくなった。

僕は酒屋の先の角を曲がり、ゆっくりと車を走らせた。遠い記憶にある街並みは、あの頃より壁が汚れて少しくたびれた感じになった家々の隣に、新しいマンションがいくつか建ち、長い年月が経った事を実感させられる。

少しの間住宅街を眺めていると、直ぐ近くに公園があるのを思い出した。彼女を送りにきた時、別れ惜しかった僕は、いつもその公園の前に車を停め、しばらく彼女と話した後、家の前まで歩いて彼女を送った。

「家の前だと、車の音が煩いから。」と言う僕に、「気を使ってくれてありがとう。」と嬉しそうに微笑んでいた彼女の顔を思い出す。

僕はあの頃いつも停めていた場所の反対側の出入り口の横に車を停めた。

当時水色のペンキが塗りたてだった公園の入り口にあるバリカーは、ステンレス製の少し形状の違うタイプに代わっていた。

園内に目を移すと、町内会と思われる数人の老人達が、タオルを首に巻きながら掃除をしている。

そしてさほど広くない公園の反対側の出入り口には、制服を着たカップルがバリカーに腰を掛け、飲み物を飲みながら楽しそうに話しをしている。

僕はエンジンを切り、車から降りて反対側の出入り口を見つめた。

学生の子達が会話をしているその場所は、当時、付き合い始めて2年目の夏、いつものように送り届けた別れ際に、彼女が初めて、「私達、結婚しても上手くいくんじゃない?」と言ってくれた場所だった。

あの頃、僕達はよく車の中で、理想の家庭像を冗談交じりで話していた。その日も僕の誕生日プレゼントを買ってくれると言う彼女の誘いに、店に着く迄の車内で、理想の夫婦の話で盛り上がっていた。

彼女は冗談っぽく言ったが、それでもびっくりしている僕に、「何か女の人からプロポーズしてるみたいで変だよね」と言いながら、屈託のない笑顔を見せて僕から視線を外した。少し男っぽい性格だった彼女が珍しく照れくさそうにしたのが印象的だった。

人間的にも、そして収入的にも今より未熟だった僕は、そんな彼女の気持ちと言葉に、「今はまだ金がきついから。。」と、情けない言葉を返してしまっていた。

彼女はそんな情けない僕に対しても、いつも笑顔で「二人で頑張ればやっていけるよ。」と、会う度にといってもよい位、何度も何度も言ってくれた。

彼女の気持ちが心から嬉しかったが、どうしても金銭的な不安をはらえない僕は、デートの度に来年の夏の旅行の計画や、「今度あそこのレストランに行こう」等と言って、彼女の気持ちに直ぐに答えられない現状を取り繕った。

そして翌年、最近彼女が結婚という言葉を口にしなくなった事に気が付いた3年目の夏、ニュースで梅雨明けが告げられた翌日、僕はこの公園のブランコの前で彼女から別れを告げられた。

別れ際、彼女は「私ね、、」と、何か言いかけたのをやめ、そのまま涙をこらえて横を向いた。唇を少し震わせ、悲しさを押し殺した横顔が今でもはっきりと思い浮かぶ。

あれから20年の月日が経った。あの頃より収入も安定し、精神的にも大人になれた気持ちでいるが、今もし彼女に偶然会ったら、彼女の目に、今の僕はどの様に映るだろう。。

そんな事を思い、僕はブランコを見つめながら車のドアを開けた。

その時、ふと前を見ると白髪混じりの60代後半と思われる女性が、大学生位の女の子と楽しそうに会話をしながら歩いてきた。白髪の目立つその女性は別れた彼女の母親だった。

あの頃、程よく茶色に染められ、毛先を綺麗にカールさせていた長い髪は、耳が少し隠れる位まで短くカットされて殆ど白髪のショートヘアに変わっていた。そして背格好も遠い記憶と別人のように小さく見えた。

彼女の母親の腕を支えながら歩く大学生位の女の子は、目元が別れた彼女にそっくりで、微笑んだ時の横顔は、タイムスリップした気持ちになる位に似ていた。

僕は気付かれてはいけない気がして急いで車に乗り込んだが、彼女の母親はこちらを向き、フロントガラス越に僕と目が合った。僕はとっさに助手席のバッグから物を取り出すふりをして横を向いた。

二人はゆっくりと車の横を通り過ぎた。運転席の窓が全開だったので、杖を突きながら歩く彼女の母親の右手がスローモーションのように僕の顔のすぐ横を通り過ぎた。

二人が運転席の横を通り過ぎると、僕は直ぐにサイドミラーを見た。

僕の事は覚えていないかもしれない。でも、彼女と付き合っていた3年間、親切に、そして本当に優しくしてくれた彼女の母親に、何のお礼も言う事が出来ず、そのままになってしまったのがずっと心残りだった。

結婚に踏み切れない事が、彼女の母親の優しさも裏切っている気がしていた。

折角偶然会えたのに、何故ちゃんとお礼を言えなかったのだろう。僕はとっさに顔を背けた自分への嫌悪感に包まれながら、エンジンのスターターボタンを押した。

僕はカーナビの音声案内をONに戻し、ゆっくりとアクセルを踏んだ。サイドミラーにはもう二人の姿は見えなかった。

車が動きだして直ぐにカーナビのアナウンスが流れた。

「別のルートをご案内します」

ナビの音声に胸の奥がせつない痛みを感じた。

あの時、神様は僕達に別々のルートを与えた。正確には彼女の事を別の幸せなルートに導いた。

僕と別れた2~3年後、彼女は結婚して子供を産み、そして今でも幸せに暮らしているのだろう。

車が15メートル程走ると、次の音声案内が流れ、この先の角を左に曲がるように案内した。

僕はナビのアナウンス通り次の角を左折した。

その道は彼女に別れを告げられた夜、いつもならこの先の数十メートル先を右折するまで見送ってくれていた彼女が、その日は車が走り出すと直ぐに背を向けて歩き出した姿を正視する事が出来ずに、現状から逃げるような気持で曲がった道だった。

角を曲がると直ぐに別れの場面がよみがえってきた。頭の中の遠い記憶は、ちぎれたパズルを合せるように薄いモノトーンとセピアが混ざった色でつながった。

あの夜と同じ少し遠回りの道をゆっくりと走った。道端には季節遅れのひまわりが一輪、雲の少ない澄んだ空に向かって咲いている。そして夕方にはまだ気の早い蜩(ひぐらし)の鳴き声が、少し物悲しく胸の奥に響いてゆく。

国道に出た僕は、いつも彼女を送った帰り道と同じように車の窓を全開にして走った。そして幾つかの信号の先にある歩道橋を見つめた。

あの頃、その歩道橋を通り過ぎる位になると、「今日はありがとう。」と、いつも彼女からのメールが届いた。僕はそのたった一言の短いメールを見て安心して帰路についていた。

助手席の携帯をとり、彼女からのメールを見ていた自分の姿を思い出しながら走っていると、目の前の景色は、あの頃と同じ夜の色に変わり、歩道橋が近づいてきた。

彼女が去っていった日の帰り道、何度も助手席に置いた携帯電話を見ながら、祈る気持ちでこの歩道橋の手前から彼女からのメールを待っていた自分の姿がよみがえってくる。

あの日、彼女からメールは届かず、そして別れ際に車のバックミラー越しに見た、足早に去ってゆく後ろ姿が、彼女を見る最後だった。

車が歩道橋の下を通り過ぎる瞬間、あの頃のメールの着信音が「ピピッ、ピピッ」っと胸の中で聞こえ、目の前が昼間の景色に戻った。

その胸の奥で聞こえた短い着信音は、二人の人生を覚悟出来なかった僕に、あの夜、彼女がブランコの前で言いかけてやめた、最後に僕へ伝えたかった何かを届けに来たように感じた。

僕はカーナビの目的地を解除し、車の窓を閉めてラジオをつけた。

ラジオからは、助手席でいつも膝を抱えながら彼女が口ずさんでいた、90年代のヒットソングが流れてきた。

end

by_hearts