平日休みの今日、所用を済ませる為に、僕は午前中から車を走らせていた。
用事のある目的地迄は自宅から1時間程の所にある。
車の窓を開け空を見ると、少し高くなった雲と、湿度の低くなった空気が夏の終わりを感じさせる。
思いのほか交通量の少ない国道を抜け、僕は予想していた時間より早く目的地に着く事ができた。
問題無く用事も済み、パーキングに戻る途中で目に留まった、昭和の懐かしさを感じる中華屋で少し早目の昼食を済ませ帰路につく事にした。
走り始めて少しすると、ナビが渋滞回避のルート変更をアナウンスした。
僕は所々微かに記憶にある裏道を辿るか、ナビの誘導に従うか迷ったが、空腹が満たされた後の少しの眠気のせいもあり、ナビの選択したルートに従う事にした。
ナビはアナウンスの後、国道から裏道に入るルートを選択し、暫くの間、車は住宅街と幾つものスクールゾーンを抜けながら走った。
裏道を走り続けていると、見覚えのある十字路にたどり着いた。
それは、20年程前、3年間付きあっていた彼女の家の近くの十字路だった。
高校卒業後直ぐに働いていた僕は、周りの友人より何年も遅れて免許を取った。そして安い小型の中古車を買い、時間が合う度に彼女と車で出掛けて、帰りはいつも家まで送っていた。
週に何度も彼女を送り届ける僕を見て、彼女の母親は「コーヒーでも飲んで行きなさい」と、時々僕を家に招いてくれた。
夫を事故で亡くしていたが、それを感じさせない、明るく社交的で綺麗な母親だった。
彼女との交際を認めてもらう為の、きちんとした挨拶をした事がないままにも拘らず、彼女の母親の優しい態度が凄く嬉しかったのを今でも覚えている。
偶然たどり着いた風景に、懐かしさが胸いっぱいに広がった。
僕はナビのアナウンスをOFFにして、後ろから車が来ない事を確かめながら、ゆっくりと周りの風景を見つめた。
彼女を送り届けた帰り道、毎回のように煙草とビールを買いに寄っていた酒屋は、壁のペンキを塗り替え、入り口の屋根も新しくし、店の中も現代風にリニューアルされていた。
少し停まり店内を見ると、店主が笑顔で客と会話をしながらレジを打っていた。
あの頃、頻繁に買いに来る僕に、店主は「毎度有難うございます。」と親しみのある笑顔を見せてくれていた。何度か顔を合わせるうちに、少しだけ世間話をする事もあったが、今でも僕の事を覚えてくれているだろうか。。
一瞬店に入りたい気持ちになったが、今では煙草もやめ、家では酒も殆ど飲まなくなったので、何を買うか思いつかずにそのまま通り過ぎてしまった。
酒屋の前からは数分で大通りに出れる筈だが、僕はもう少しこの辺りの風景を見たくなった。
僕は酒屋の先の角を曲がり、ゆっくりと車を走らせた。遠い記憶にある街並みは、あの頃より壁が汚れて少しくたびれた感じになった家々の隣に、新しいマンションがいくつか建ち、長い年月が経った事を実感させられる。
少しの間住宅街を眺めていると、直ぐ近くに公園があるのを思い出した。彼女を送りにきた時、別れ惜しかった僕は、いつもその公園の前に車を停め、しばらく彼女と話した後、家の前まで歩いて彼女を送った。
「家の前だと、車の音が煩いから。」と言う僕に、「気を使ってくれてありがとう。」と嬉しそうに微笑んでいた彼女の顔を思い出す。
僕はあの頃いつも停めていた場所の反対側の出入り口の横に車を停めた。
当時水色のペンキが塗りたてだった公園の入り口にあるバリカーは、ステンレス製の少し形状の違うタイプに代わっていた。
園内に目を移すと、町内会と思われる数人の老人達が、タオルを首に巻きながら掃除をしている。
そしてさほど広くない公園の反対側の出入り口には、制服を着たカップルがバリカーに腰を掛け、飲み物を飲みながら楽しそうに話しをしている。
僕はエンジンを切り、車から降りて反対側の出入り口を見つめた。
学生の子達が会話をしているその場所は、当時、付き合い始めて2年目の夏、いつものように送り届けた別れ際に、彼女が初めて、「私達、結婚しても上手くいくんじゃない?」と言ってくれた場所だった。
あの頃、僕達はよく車の中で、理想の家庭像を冗談交じりで話していた。その日も僕の誕生日プレゼントを買ってくれると言う彼女の誘いに、店に着く迄の車内で、理想の夫婦の話で盛り上がっていた。
彼女は冗談っぽく言ったが、それでもびっくりしている僕に、「何か女の人からプロポーズしてるみたいで変だよね」と言いながら、屈託のない笑顔を見せて僕から視線を外した。少し男っぽい性格だった彼女が珍しく照れくさそうにしたのが印象的だった。
人間的にも、そして収入的にも今より未熟だった僕は、そんな彼女の気持ちと言葉に、「今はまだ金がきついから。。」と、情けない言葉を返してしまっていた。
彼女はそんな情けない僕に対しても、いつも笑顔で「二人で頑張ればやっていけるよ。」と、会う度にといってもよい位、何度も何度も言ってくれた。
彼女の気持ちが心から嬉しかったが、どうしても金銭的な不安をはらえない僕は、デートの度に来年の夏の旅行の計画や、「今度あそこのレストランに行こう」等と言って、彼女の気持ちに直ぐに答えられない現状を取り繕った。
そして翌年、最近彼女が結婚という言葉を口にしなくなった事に気が付いた3年目の夏、ニュースで梅雨明けが告げられた翌日、僕はこの公園のブランコの前で彼女から別れを告げられた。
別れ際、彼女は「私ね、、」と、何か言いかけたのをやめ、そのまま涙をこらえて横を向いた。唇を少し震わせ、悲しさを押し殺した横顔が今でもはっきりと思い浮かぶ。
あれから20年の月日が経った。あの頃より収入も安定し、精神的にも大人になれた気持ちでいるが、今もし彼女に偶然会ったら、彼女の目に、今の僕はどの様に映るだろう。。
そんな事を思い、僕はブランコを見つめながら車のドアを開けた。
その時、ふと前を見ると白髪混じりの60代後半と思われる女性が、大学生位の女の子と楽しそうに会話をしながら歩いてきた。白髪の目立つその女性は別れた彼女の母親だった。
あの頃、程よく茶色に染められ、毛先を綺麗にカールさせていた長い髪は、耳が少し隠れる位まで短くカットされて殆ど白髪のショートヘアに変わっていた。そして背格好も遠い記憶と別人のように小さく見えた。
彼女の母親の腕を支えながら歩く大学生位の女の子は、目元が別れた彼女にそっくりで、微笑んだ時の横顔は、タイムスリップした気持ちになる位に似ていた。
僕は気付かれてはいけない気がして急いで車に乗り込んだが、彼女の母親はこちらを向き、フロントガラス越に僕と目が合った。僕はとっさに助手席のバッグから物を取り出すふりをして横を向いた。
二人はゆっくりと車の横を通り過ぎた。運転席の窓が全開だったので、杖を突きながら歩く彼女の母親の右手がスローモーションのように僕の顔のすぐ横を通り過ぎた。
二人が運転席の横を通り過ぎると、僕は直ぐにサイドミラーを見た。
僕の事は覚えていないかもしれない。でも、彼女と付き合っていた3年間、親切に、そして本当に優しくしてくれた彼女の母親に、何のお礼も言う事が出来ず、そのままになってしまったのがずっと心残りだった。
結婚に踏み切れない事が、彼女の母親の優しさも裏切っている気がしていた。
折角偶然会えたのに、何故ちゃんとお礼を言えなかったのだろう。僕はとっさに顔を背けた自分への嫌悪感に包まれながら、エンジンのスターターボタンを押した。
僕はカーナビの音声案内をONに戻し、ゆっくりとアクセルを踏んだ。サイドミラーにはもう二人の姿は見えなかった。
車が動きだして直ぐにカーナビのアナウンスが流れた。
「別のルートをご案内します」
ナビの音声に胸の奥がせつない痛みを感じた。
あの時、神様は僕達に別々のルートを与えた。正確には彼女の事を別の幸せなルートに導いた。
僕と別れた2~3年後、彼女は結婚して子供を産み、そして今でも幸せに暮らしているのだろう。
車が15メートル程走ると、次の音声案内が流れ、この先の角を左に曲がるように案内した。
僕はナビのアナウンス通り次の角を左折した。
その道は彼女に別れを告げられた夜、いつもならこの先の数十メートル先を右折するまで見送ってくれていた彼女が、その日は車が走り出すと直ぐに背を向けて歩き出した姿を正視する事が出来ずに、現状から逃げるような気持で曲がった道だった。
角を曲がると直ぐに別れの場面がよみがえってきた。頭の中の遠い記憶は、ちぎれたパズルを合せるように薄いモノトーンとセピアが混ざった色でつながった。
あの夜と同じ少し遠回りの道をゆっくりと走った。道端には季節遅れのひまわりが一輪、雲の少ない澄んだ空に向かって咲いている。そして夕方にはまだ気の早い蜩(ひぐらし)の鳴き声が、少し物悲しく胸の奥に響いてゆく。
国道に出た僕は、いつも彼女を送った帰り道と同じように車の窓を全開にして走った。そして幾つかの信号の先にある歩道橋を見つめた。
あの頃、その歩道橋を通り過ぎる位になると、「今日はありがとう。」と、いつも彼女からのメールが届いた。僕はそのたった一言の短いメールを見て安心して帰路についていた。
助手席の携帯をとり、彼女からのメールを見ていた自分の姿を思い出しながら走っていると、目の前の景色は、あの頃と同じ夜の色に変わり、歩道橋が近づいてきた。
彼女が去っていった日の帰り道、何度も助手席に置いた携帯電話を見ながら、祈る気持ちでこの歩道橋の手前から彼女からのメールを待っていた自分の姿がよみがえってくる。
あの日、彼女からメールは届かず、そして別れ際に車のバックミラー越しに見た、足早に去ってゆく後ろ姿が、彼女を見る最後だった。
車が歩道橋の下を通り過ぎる瞬間、あの頃のメールの着信音が「ピピッ、ピピッ」っと胸の中で聞こえ、目の前が昼間の景色に戻った。
その胸の奥で聞こえた短い着信音は、二人の人生を覚悟出来なかった僕に、あの夜、彼女がブランコの前で言いかけてやめた、最後に僕へ伝えたかった何かを届けに来たように感じた。
僕はカーナビの目的地を解除し、車の窓を閉めてラジオをつけた。
ラジオからは、助手席でいつも膝を抱えながら彼女が口ずさんでいた、90年代のヒットソングが流れてきた。
end
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2017年10月10日火曜日
2017年3月5日日曜日
風桜
夜になるとまだ冷え込む3月下旬、それでもいつもの年より暖かいせいか、今年は少し早目に桜が満開になった。
産まれ育ったこの街を流れる川沿いに桜並木がある。
コンクリートで護岸されたその川は、数キロ程下ると、コンテナと倉庫が立ち並ぶ隣り街の埠頭へと続いていた。
数十年前までは、大雨が降ると時々氾濫していたようだが、私が子供の頃は水かさが減り、浅く汚いドブ川だった。
小学生の頃、気の合う同級生の男の子達と所々ある護岸の錆びたはしごを伝い、水辺まで降りて隣の区まで歩いて遊んでいたのを思い出す。
ある時は男の子の一人がはしごから手を滑らし、大人の背丈ほどの高さから水際に落ちてしまった事があった。バランスを崩して落ちた男の子は、右目の眉の下に数針縫う怪我をしてしまった。
私も膝から下はどぶ水が跳ね、スニーカーも下水臭くしてしまい、家に帰ると母に注意された。
その男の子の縫い傷は、夏、顔が真っ黒に日焼けした時も、傷の部分だけ殆ど日焼けせずに元の肌色のままだった。同じ中学校に通ったが、時々その縫い傷を見る度に、怪我をした日の事を思い出していた。
あれから15年ほどの月日が経ち、いつからか護岸は桜並木となり、毎年この季節になると大勢の人達がこの川を訪れるようになった。
週末の今日、私は地元の駅で彼氏と待ち合わせをし、今年も桜並木を見にきた。
3年前のちょうどこの時期、二人の交際は始まった。初めてのデートの日の帰りにも、二人でこの桜並木を見に来た。
川沿いに着くと、護岸は既に大勢の花見客で賑わい、幾つもある屋台は、仕事帰りのサラリーマン達やカップルでどこも満席のようだ。
片手に缶ビールを持ちながら歩く花見客も多く、あちこちから聞こえる大きな笑い声と騒ぎ声で、辺りはとても騒がしい状態になっている。
ふと見ると私達と同年代と思われる1組の夫婦が、幼い子供をベビーカーに乗せ、桜を見ながらゆっくりと歩いていた。
ベビーカーに乗るその幼い子供はまだ1歳にもならない位だろうか、片手に小さなぬいぐるみを持ち、時々元気そうに両手を動かしていた。
その愛くるしい子供の様子と、母親がベビーカーのブランケットを掛け直しながら、優しく子供に話しかける姿が微笑ましく、私は少しの間その親子を見つめていた。
私の目線に気が付いた彼も、微笑みながらベビーカーを見つめている。
喧騒の中、その親子が私達の横を通り過ぎようとした時、少し強い風が吹き、桜の花びらが一斉に辺りに舞った。
花見客の歓声の中、桜吹雪は目の前のベビーカーにもたくさん落ちた。
直ぐ横を歩いていた私の彼は、夫婦に会釈をしながら「お顔にもお花が付いちゃったね」と微笑み、子供の顔から花びらを取ってあげた。
夫婦は「ありがとうございます」といい、穏やかな人柄を感じさせる表情でベビーカーの中に何枚も落ちた花びらを取り始めた。
彼は「お子さんお幾つですか?」と尋ねた。
母親が「1歳です。丁度今日誕生日で」と嬉しそうに答えた。
彼はベビーカーの横にしゃがみ、「お誕生日おめでとう。お花もお祝いしてくれたね」と優しい顔で子供の頭をなでた。
夫婦は嬉しそうに微笑み、彼と子供の事を見つめている。
少しの間、私達は子供をあやし、夫婦に会釈をして歩き始めた。
私は子供をあやす彼の姿が印象深く、意識はしていなかったが、彼が幼い子供に接する姿を初めて見た気がした。
遊歩道は時折風が吹く度に花びらが舞い、それはいくつも彼のコートの肩にもとまった。
私はその花びらと、子供をあやした後、何故か口数が少なくなった彼の後ろ姿を見ていた。
暫く会話の無いまま歩いていると、彼が微笑みながら振り向いた。
右の眉の下に、小さな縫い傷が残る彼の瞳に、近い未来、この桜並木をベビーカーを押しながら歩く私達の姿が優しく映っていた。
私は微笑み返し、彼の手をつないだ。
私達は遊歩道から橋の途中で立ち止まり、子供の頃より随分と綺麗になった川と桜並木を見つめた。幼い頃より少しだけ川幅が狭く見える気がした。
喧騒の中、浅い川の水音ははっきり聞こえるのが不思議だった。
橋の上から見下ろす川は穏やかにゆっくりと流れ、水面は月の光と街灯のライトできらきらと反射していた。
そして風で散った桜の花びら達を、いくつもの灯台が連なる、隣り街の埠頭へと運んでいった。
end
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産まれ育ったこの街を流れる川沿いに桜並木がある。
コンクリートで護岸されたその川は、数キロ程下ると、コンテナと倉庫が立ち並ぶ隣り街の埠頭へと続いていた。
数十年前までは、大雨が降ると時々氾濫していたようだが、私が子供の頃は水かさが減り、浅く汚いドブ川だった。
小学生の頃、気の合う同級生の男の子達と所々ある護岸の錆びたはしごを伝い、水辺まで降りて隣の区まで歩いて遊んでいたのを思い出す。
ある時は男の子の一人がはしごから手を滑らし、大人の背丈ほどの高さから水際に落ちてしまった事があった。バランスを崩して落ちた男の子は、右目の眉の下に数針縫う怪我をしてしまった。
私も膝から下はどぶ水が跳ね、スニーカーも下水臭くしてしまい、家に帰ると母に注意された。
その男の子の縫い傷は、夏、顔が真っ黒に日焼けした時も、傷の部分だけ殆ど日焼けせずに元の肌色のままだった。同じ中学校に通ったが、時々その縫い傷を見る度に、怪我をした日の事を思い出していた。
あれから15年ほどの月日が経ち、いつからか護岸は桜並木となり、毎年この季節になると大勢の人達がこの川を訪れるようになった。
週末の今日、私は地元の駅で彼氏と待ち合わせをし、今年も桜並木を見にきた。
3年前のちょうどこの時期、二人の交際は始まった。初めてのデートの日の帰りにも、二人でこの桜並木を見に来た。
川沿いに着くと、護岸は既に大勢の花見客で賑わい、幾つもある屋台は、仕事帰りのサラリーマン達やカップルでどこも満席のようだ。
片手に缶ビールを持ちながら歩く花見客も多く、あちこちから聞こえる大きな笑い声と騒ぎ声で、辺りはとても騒がしい状態になっている。
ふと見ると私達と同年代と思われる1組の夫婦が、幼い子供をベビーカーに乗せ、桜を見ながらゆっくりと歩いていた。
ベビーカーに乗るその幼い子供はまだ1歳にもならない位だろうか、片手に小さなぬいぐるみを持ち、時々元気そうに両手を動かしていた。
その愛くるしい子供の様子と、母親がベビーカーのブランケットを掛け直しながら、優しく子供に話しかける姿が微笑ましく、私は少しの間その親子を見つめていた。
私の目線に気が付いた彼も、微笑みながらベビーカーを見つめている。
喧騒の中、その親子が私達の横を通り過ぎようとした時、少し強い風が吹き、桜の花びらが一斉に辺りに舞った。
花見客の歓声の中、桜吹雪は目の前のベビーカーにもたくさん落ちた。
直ぐ横を歩いていた私の彼は、夫婦に会釈をしながら「お顔にもお花が付いちゃったね」と微笑み、子供の顔から花びらを取ってあげた。
夫婦は「ありがとうございます」といい、穏やかな人柄を感じさせる表情でベビーカーの中に何枚も落ちた花びらを取り始めた。
彼は「お子さんお幾つですか?」と尋ねた。
母親が「1歳です。丁度今日誕生日で」と嬉しそうに答えた。
彼はベビーカーの横にしゃがみ、「お誕生日おめでとう。お花もお祝いしてくれたね」と優しい顔で子供の頭をなでた。
夫婦は嬉しそうに微笑み、彼と子供の事を見つめている。
少しの間、私達は子供をあやし、夫婦に会釈をして歩き始めた。
私は子供をあやす彼の姿が印象深く、意識はしていなかったが、彼が幼い子供に接する姿を初めて見た気がした。
遊歩道は時折風が吹く度に花びらが舞い、それはいくつも彼のコートの肩にもとまった。
私はその花びらと、子供をあやした後、何故か口数が少なくなった彼の後ろ姿を見ていた。
暫く会話の無いまま歩いていると、彼が微笑みながら振り向いた。
右の眉の下に、小さな縫い傷が残る彼の瞳に、近い未来、この桜並木をベビーカーを押しながら歩く私達の姿が優しく映っていた。
私は微笑み返し、彼の手をつないだ。
私達は遊歩道から橋の途中で立ち止まり、子供の頃より随分と綺麗になった川と桜並木を見つめた。幼い頃より少しだけ川幅が狭く見える気がした。
喧騒の中、浅い川の水音ははっきり聞こえるのが不思議だった。
橋の上から見下ろす川は穏やかにゆっくりと流れ、水面は月の光と街灯のライトできらきらと反射していた。
そして風で散った桜の花びら達を、いくつもの灯台が連なる、隣り街の埠頭へと運んでいった。
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